悲しい色やね : 上田正樹
初夏の陽気が続く今日この頃ですが、我が家の庭は一年中で一番華やかにいろいろの花が咲いています。
ビオラがまだ頑張って咲き、勿忘草やナルコユリは盛を過ぎたもののまだ元気に咲いており、スズランが咲き、ガザニアがプランターと地植えと咲き、ベロニカ・オックスフォードブルー、ピンク・セージ、ゼラニウム、ペチュニア、カリブラコア、ミニバラ、そして、サツキ、紫蘭や金宝樹(ブラシの木)が2~3日前から咲き始め、赤、黄、白、紫、ピンク、青、橙など色とりどりで、見ているととても気持ち豊かになります。
さて、カサブランカが高波で寄港出来なかった代わりに英国領のジブラルタルを訪ねました。地中海の出入口となる人口約3万の都市で日本人観光客はほとんど行かない所とのこと。半島の南端のヨーロッパ岬と呼ばれるところから、ジブラルタル海峡をはさんで14km先にアフリカ大陸が見渡されました。
ジブラルタルは大変洒落た街でして、広場には花が花は街路樹などキレイに手入れされていました。そして、驚いたのは日本では生け花で見るか、または温室でしか見ることのない、「極楽鳥花(ストレリチア)」が広場のあちこちに咲いているのです。さすがに、この地は地中海性気候及び亜熱帯に属するということだからでしょう。
極楽鳥花は学名をストレリチアという草丈が1m~2mの南アフリカ原産のバショウ科の観葉植物で、オレンジ色の花は鳥の頭のような形をしており、それが金色の美しい飾り羽を尾の部分にもつ風鳥(ふうちょう)、別名「極楽鳥」に似ていることから、極楽鳥花と命名され、英語名でもバード・オブ・パラダイス(Bird Of Paradise)と呼ばれる大変ユニークな植物です。
極楽鳥花の花言葉は「気取った恋」、「万能」です。


ジブラルタルの広場の極楽鳥花 (2014/04/04)
今日アップする歌は「悲しい色やね」、歌手は上田正樹です。
上田正樹は1949年7月7日生まれで、今年64歳です。京都市生まれですが、その後神戸市に移り、兵庫県立福崎高等学校を卒業しました。在学中から音楽に夢中になり、若くして亡くなった父親の跡を継ぐべく医師を目指した少年が、リズム&ブルースに触れたことで、ミュージシャンの道を歩み出し、23歳の1972年に「金色の太陽が燃える朝に」で歌手デビューしました。そして、1974年に「上田正樹とサウストゥサウス」を結成してボーカルを担当、当時のバンドブームの頂点に立ちましたが、1976年にグループを解散。その後ソロになり、ソウルフルなボーカルと独特のステージで根強いファンを獲得しましたが、1977年11月に大麻取締法違反容疑で逮捕されています。しかし、立ち直って1982年にリリースした「悲しい色やね」がシングル・チャート1位を獲得して、自身最高のヒット曲となりました。 近年ではアジア圏での活躍も目覚ましく、日本を代表するR&Bシンガーとしてアーティストから熱い注目を浴び、2001年にはインドネシアで17週連続1位を獲得するなど、インドネシア、マレーシア、韓国での人気も確固たるもので、今や実力派シンガー・ソングライターの地位を不動のものとしています。
さて、この「悲しい色やね」の大阪を代表するご当地ソングです。
歌詞の舞台となっているのは「大阪の南港」で、歌い出しの
♪~にじむ街の灯を は、 最初は ♪~尼崎の灯を だったそうですが、具体的すぎるので「街の灯」になったそうで、それは天保山という、その地区の「天保山公園」の一角にある標高4.5mで、国土地理院発行の地形図に表示される山では日本一低い天保山から見える灯だそうです。
そして、歌詞は ♪~桟橋に止めた 車にもたれて と続きますが、こここまでは横浜港でも見られる風景ですが、次に続く歌詞 ♪~泣いたらあかん 泣いたら で、がらりと大阪の景色に変わります。30年前の歌詞に漂う、やり場のない、港の行き止まりの雰囲気は今は無く、埋めて立てで出現した「ベイエリア」で、新しい設備が立ち並ぶそこは、今は「悲しい色」を少しも感じさせない近代的な湾岸地域となっています。
上田正樹が唄った「悲しい色」とは、どんな「色」だったのでしょうか?実はこの歌詞は、当時彼が居を構えていた東京で、1981年に作詞家:康珍化と二人で議論しながら作りあげたものでした。母親の駆け落ち、義父へのライバル意識、天王寺でホームレス生活をするという波瀾万丈の中で、ミナミや西成に住んだ70年代の「大阪体験」がこの歌に結集されているのです。
つまり、上田正樹に言わせると「悲しい色」とは、「汚れて、濁った海の色」だそうです。しかし、この歌には、
♪~ 逃げたらあかん 逃げたら くちびるかんだけど
・・・・・・・
♪~ 恋や夢のかけら みんな海に流してく
と辛く、悲しい事があっても海に流して、スッパリと忘れてしまおう。そして逃げずに明日から新しく歩いて行こうという前向きさが伝わってきます。
発売当初は「売れていないが、良い曲」という感じで、NHK-FMやABC(大阪のAM放送局)などでオン・エアーされていましたが、翌年になって有線放送から火がつき、シングル・ヒットチャート最高1位を獲得し、200万枚という大ヒットとなりました。
名曲です。
< 悲しい色やね > 歌手:上田正樹
作詞:康珍化 作曲:林哲司 1982年10月リリース

歌詞:http://www.uta-net.com/movie/1317/
つぶやき:「ウレシイな~!!テニスの錦織圭選手がついに念願の世界ランキング(1973年に導入された現行のランキング制度)で日本男子初のトップ10入りとなって9位になったのだ~ これは本当にすごいことだぞ~ 当方もテニスを長い間やっているので、少々その何たるかに一家言を持っているので事のほか嬉しい!
テニスは皇太子殿下(現天皇)と美智子様の軽井沢ロマンスでブームになった頃に、大学で卒論実験で結果が出るまでの待ち時間に校内にあるコートで時間つぶしにやり始めたのが最初。 社会人になって仕事になれた頃にテニス・スクールに通い始め、途中海外勤務で数年間のブランクがあったが、現在も同じスクールで35年間続けている。
野球やバスケット、サッカーなどの団体競技と異なりテニスは全くの個人競技であるため、プロとなると試合時間が3時間以上はざらにあり、また疲れや負傷があっても交代があり得ないので、個人の持つ身体能力が大きく影響するスポーツで『テニスはネットを挟んだ総合格闘技』といわれ、そのため『背が低く、体力に劣る日本人は活躍するのが難しい』と言われてきたんだ~。今回のマドリード・オープンの決勝でも、相手の王者ナダル選手に第1セットを勝利し、第2セットも4-2とリードして追い詰めたが、疲れからきた腰の負傷のため結局このセットに破れ、最終的には棄権を余儀なくされて準優勝に終わったという・・・。当方たちのやるテニスは一般的にはダブルス形式で一セットで、かつ簡略ゲーム方式でやるから、試合は15~30分程度で終わるが、それでもボールを追ってコートを駆け巡るので運動量はかなり多いな~ 先月末のバルセロナ・オープンで優勝してすぐに今回のマドリード・オープンに出場という事で、やはり体力の問題が浮き彫りにされてしまったな~!
ところで、日本人で過去に男子世界ランキングの最高位はご存知の松岡修造で、1992年に世46位。女子でいえば、1994年に伊達公子の4位、次が2004年の杉山愛の8位。そうなんだ~ テニスもサッカーも、そしてゴルフも女子の活躍が著しいんだな~
しかし、実は戦前に物凄い記録を持ったテニス選手がいたんだな~ その名は佐藤次郎選手。1931年(昭和6年)からの3年間にテニスの四大大会といわれる全豪、全仏、全英(ウィンブルドン)、全米にベスト4入り5回し四大大会シングルス32勝は日本テニス史上の最多記録であり、当時の男子テニス世界ランキングでは1931年(昭和6年)に9位に、そして翌年に3位になっているぞ~ 今日現在この佐藤選手に並ぶほどの活躍を見せた選手はいないのだ~ ただ、残念なことにデビスカップの日本チーム主将として「箱根丸」でヨーロッパ遠征に出発するが、その帰途にあった1934年4月5日に、マラッカ海峡にて投身自殺するという事件が・・・。
錦織選手は24歳でまだトップ選手の中では若いのだから、体力をまだまだ増強して厳しいトップ10内での戦いで活躍し、目指すは四大大会での優勝だ~!」
●「ア行~サ行」の歌手名アップ曲一覧はここをクリックして下さい
●「タ行~ワ行」の歌手名アップ曲一覧、および作曲:杉本眞人と
作曲:筒美京平の歌はここをクリックして下さい
ビオラがまだ頑張って咲き、勿忘草やナルコユリは盛を過ぎたもののまだ元気に咲いており、スズランが咲き、ガザニアがプランターと地植えと咲き、ベロニカ・オックスフォードブルー、ピンク・セージ、ゼラニウム、ペチュニア、カリブラコア、ミニバラ、そして、サツキ、紫蘭や金宝樹(ブラシの木)が2~3日前から咲き始め、赤、黄、白、紫、ピンク、青、橙など色とりどりで、見ているととても気持ち豊かになります。
さて、カサブランカが高波で寄港出来なかった代わりに英国領のジブラルタルを訪ねました。地中海の出入口となる人口約3万の都市で日本人観光客はほとんど行かない所とのこと。半島の南端のヨーロッパ岬と呼ばれるところから、ジブラルタル海峡をはさんで14km先にアフリカ大陸が見渡されました。
ジブラルタルは大変洒落た街でして、広場には花が花は街路樹などキレイに手入れされていました。そして、驚いたのは日本では生け花で見るか、または温室でしか見ることのない、「極楽鳥花(ストレリチア)」が広場のあちこちに咲いているのです。さすがに、この地は地中海性気候及び亜熱帯に属するということだからでしょう。
極楽鳥花は学名をストレリチアという草丈が1m~2mの南アフリカ原産のバショウ科の観葉植物で、オレンジ色の花は鳥の頭のような形をしており、それが金色の美しい飾り羽を尾の部分にもつ風鳥(ふうちょう)、別名「極楽鳥」に似ていることから、極楽鳥花と命名され、英語名でもバード・オブ・パラダイス(Bird Of Paradise)と呼ばれる大変ユニークな植物です。
極楽鳥花の花言葉は「気取った恋」、「万能」です。


ジブラルタルの広場の極楽鳥花 (2014/04/04)
今日アップする歌は「悲しい色やね」、歌手は上田正樹です。
上田正樹は1949年7月7日生まれで、今年64歳です。京都市生まれですが、その後神戸市に移り、兵庫県立福崎高等学校を卒業しました。在学中から音楽に夢中になり、若くして亡くなった父親の跡を継ぐべく医師を目指した少年が、リズム&ブルースに触れたことで、ミュージシャンの道を歩み出し、23歳の1972年に「金色の太陽が燃える朝に」で歌手デビューしました。そして、1974年に「上田正樹とサウストゥサウス」を結成してボーカルを担当、当時のバンドブームの頂点に立ちましたが、1976年にグループを解散。その後ソロになり、ソウルフルなボーカルと独特のステージで根強いファンを獲得しましたが、1977年11月に大麻取締法違反容疑で逮捕されています。しかし、立ち直って1982年にリリースした「悲しい色やね」がシングル・チャート1位を獲得して、自身最高のヒット曲となりました。 近年ではアジア圏での活躍も目覚ましく、日本を代表するR&Bシンガーとしてアーティストから熱い注目を浴び、2001年にはインドネシアで17週連続1位を獲得するなど、インドネシア、マレーシア、韓国での人気も確固たるもので、今や実力派シンガー・ソングライターの地位を不動のものとしています。
さて、この「悲しい色やね」の大阪を代表するご当地ソングです。
歌詞の舞台となっているのは「大阪の南港」で、歌い出しの
♪~にじむ街の灯を は、 最初は ♪~尼崎の灯を だったそうですが、具体的すぎるので「街の灯」になったそうで、それは天保山という、その地区の「天保山公園」の一角にある標高4.5mで、国土地理院発行の地形図に表示される山では日本一低い天保山から見える灯だそうです。
そして、歌詞は ♪~桟橋に止めた 車にもたれて と続きますが、こここまでは横浜港でも見られる風景ですが、次に続く歌詞 ♪~泣いたらあかん 泣いたら で、がらりと大阪の景色に変わります。30年前の歌詞に漂う、やり場のない、港の行き止まりの雰囲気は今は無く、埋めて立てで出現した「ベイエリア」で、新しい設備が立ち並ぶそこは、今は「悲しい色」を少しも感じさせない近代的な湾岸地域となっています。
上田正樹が唄った「悲しい色」とは、どんな「色」だったのでしょうか?実はこの歌詞は、当時彼が居を構えていた東京で、1981年に作詞家:康珍化と二人で議論しながら作りあげたものでした。母親の駆け落ち、義父へのライバル意識、天王寺でホームレス生活をするという波瀾万丈の中で、ミナミや西成に住んだ70年代の「大阪体験」がこの歌に結集されているのです。
つまり、上田正樹に言わせると「悲しい色」とは、「汚れて、濁った海の色」だそうです。しかし、この歌には、
♪~ 逃げたらあかん 逃げたら くちびるかんだけど
・・・・・・・
♪~ 恋や夢のかけら みんな海に流してく
と辛く、悲しい事があっても海に流して、スッパリと忘れてしまおう。そして逃げずに明日から新しく歩いて行こうという前向きさが伝わってきます。
発売当初は「売れていないが、良い曲」という感じで、NHK-FMやABC(大阪のAM放送局)などでオン・エアーされていましたが、翌年になって有線放送から火がつき、シングル・ヒットチャート最高1位を獲得し、200万枚という大ヒットとなりました。
名曲です。
< 悲しい色やね > 歌手:上田正樹
作詞:康珍化 作曲:林哲司 1982年10月リリース

歌詞:http://www.uta-net.com/movie/1317/
つぶやき:「ウレシイな~!!テニスの錦織圭選手がついに念願の世界ランキング(1973年に導入された現行のランキング制度)で日本男子初のトップ10入りとなって9位になったのだ~ これは本当にすごいことだぞ~ 当方もテニスを長い間やっているので、少々その何たるかに一家言を持っているので事のほか嬉しい!
テニスは皇太子殿下(現天皇)と美智子様の軽井沢ロマンスでブームになった頃に、大学で卒論実験で結果が出るまでの待ち時間に校内にあるコートで時間つぶしにやり始めたのが最初。 社会人になって仕事になれた頃にテニス・スクールに通い始め、途中海外勤務で数年間のブランクがあったが、現在も同じスクールで35年間続けている。
野球やバスケット、サッカーなどの団体競技と異なりテニスは全くの個人競技であるため、プロとなると試合時間が3時間以上はざらにあり、また疲れや負傷があっても交代があり得ないので、個人の持つ身体能力が大きく影響するスポーツで『テニスはネットを挟んだ総合格闘技』といわれ、そのため『背が低く、体力に劣る日本人は活躍するのが難しい』と言われてきたんだ~。今回のマドリード・オープンの決勝でも、相手の王者ナダル選手に第1セットを勝利し、第2セットも4-2とリードして追い詰めたが、疲れからきた腰の負傷のため結局このセットに破れ、最終的には棄権を余儀なくされて準優勝に終わったという・・・。当方たちのやるテニスは一般的にはダブルス形式で一セットで、かつ簡略ゲーム方式でやるから、試合は15~30分程度で終わるが、それでもボールを追ってコートを駆け巡るので運動量はかなり多いな~ 先月末のバルセロナ・オープンで優勝してすぐに今回のマドリード・オープンに出場という事で、やはり体力の問題が浮き彫りにされてしまったな~!
ところで、日本人で過去に男子世界ランキングの最高位はご存知の松岡修造で、1992年に世46位。女子でいえば、1994年に伊達公子の4位、次が2004年の杉山愛の8位。そうなんだ~ テニスもサッカーも、そしてゴルフも女子の活躍が著しいんだな~
しかし、実は戦前に物凄い記録を持ったテニス選手がいたんだな~ その名は佐藤次郎選手。1931年(昭和6年)からの3年間にテニスの四大大会といわれる全豪、全仏、全英(ウィンブルドン)、全米にベスト4入り5回し四大大会シングルス32勝は日本テニス史上の最多記録であり、当時の男子テニス世界ランキングでは1931年(昭和6年)に9位に、そして翌年に3位になっているぞ~ 今日現在この佐藤選手に並ぶほどの活躍を見せた選手はいないのだ~ ただ、残念なことにデビスカップの日本チーム主将として「箱根丸」でヨーロッパ遠征に出発するが、その帰途にあった1934年4月5日に、マラッカ海峡にて投身自殺するという事件が・・・。
錦織選手は24歳でまだトップ選手の中では若いのだから、体力をまだまだ増強して厳しいトップ10内での戦いで活躍し、目指すは四大大会での優勝だ~!」
●「ア行~サ行」の歌手名アップ曲一覧はここをクリックして下さい
●「タ行~ワ行」の歌手名アップ曲一覧、および作曲:杉本眞人と
作曲:筒美京平の歌はここをクリックして下さい
"悲しい色やね : 上田正樹" へのコメントを書く